なんというか死ぬことと、脳のアレ

 死ぬことが怖いと思っている人が多いが、本当に怖いことは死ぬことじゃない。別れと未知が怖いんだよ。まったく知らない世界へたった一人で行くことになって帰ってこれない、ってのも同じく怖い。死に付きまとう未知は、死後の有無というレベルだ。
 死後が無であると誰か死を経験した人が教えてくれたら、ああ無か、みんなと別れるのは怖いな、という恐怖に絞られる。死後も日常があると知れば永久の別れでないと知れ、恐怖はなくなる。
 死の恐怖ではなく、生への執着であるな。うん。
 脳に病気が芽生えてから、発作的に死への衝動が出現することが多いのだが、絶望は死を選ばせない。死後への希望が死を選ばせるわけだ。脳の病気は未知のはずの死後に希望があると信じさせるのが病気たるゆえんだ。
 この病気の原因はわかっていて、昔食った蛤の中に入っていた小さな蟹が脳に入り込んだからだ。蟹の奴、お腹が空いたら周りの脳をとって食う。遠慮しろ家賃払え。おかげで脳の機能は徐々に低下している。しかも食うときに偏頭痛も起きる。偏頭痛の場所から推測するにどうも2匹いる気がするんだが、こいつらがうっかり偶然に出会ってしまって、しかもオスとメスで、そのうえ子供でも生んでしまったら、一気に食い荒らされるなあ。痛みを認識する部分からつぶしてくれたらあと楽なんだけどなあ。
 中野の脳の病気、ここでは仮にオモシロ病としよう。このオモシロ病のオモシロ部分は人によって違うようだ。突発的に死にたくなる、という人の話も聞くが中野の場合はそうではなくて、生きている時より死んだときのほうがメリットが多いってことにふと気がつく感じ。オモシロ病で気がついたオモシロ理論だと考えてなんとか実行しないようにじっとするんだが、生きていることで回りにかけつづける迷惑が、今死ぬことで短期的にかけてしまう迷惑を上回っていると悟ってしまうのだ。死んだらそりゃ迷惑だし、人が死んだからという理由で悲しんでくれる人もいようが、行き続けることの迷惑を回避するための必要経費だとみんなもわかってくれるさ!と。
 ここまで明文化できるように表層心理に設置することで、ようやくコントロールできるようになった。とうぜんオモシロ発作が起きるとつらいけど。
 翻って死ぬということは、生きるコストを回避するための一括払いだな。いや、なんかちがうか?でも死を未知の恐怖として逃げるのと、死は恐怖じゃないとした上で死を避けるのでは、生きることの意味も変わってこよう。
 ベタな言い方で言えばメメントモリだ。死ぬということを意識するから生きられるって奴だな。宗教は大体メメントモリなんだけど、ここに宗教観を持ち込まなければ哲学と呼ばれる。そんなたいそうなもんじゃないけど。
 生きているうちに何を得て何を知り、得た知恵や知識を何に使い、誰に伝えることができるか。死ぬことを意識すれば、生きることから金儲けのための行動がどんどん抜けていく。金は来世に持ち越せないし、来世もあるかどうか知れたもんじゃないしねえ。
 
 
 生きることとは。
 
 
 それは。
 
 
 おっぱい!